偏差値40からの【新撰組通史】
〜池田屋事件、近藤勇、土方歳三、沖田総司の言葉しか知らない方へ〜

1.背景
時代: 江戸時代末期、いわゆる幕末
制度: 士農工商、鎖国
思想: 鎖国が200年以上続いたこともあり、人々の心は自然と攘夷思想(外国人を排除すること)になっていました。

2.修行時代
そうした時代背景のもと、農家に生まれた近藤勇と土方歳三は、沖田総司らとともに武士になることを夢見ながら武芸(試衛館・天然理心流)に励んでいました。しかし、士農工商制度があったので、農民が武士に成り上がるチャンスはほとんどないに等しい状況でした。

3.時代が変わる(その1)〜黒船来航〜
ペリー率いる黒船が来航し開国を要求します。

4.幕府と天皇、意見が分かれる
その頃、彼らに抵抗したアジア諸国は報復を受け植民地化されていました。
そんな状況を知っていた幕府は、開国を選択しました。

一方、鎖国状態だった故、諸国の現状をあまり知らない孝明天皇(怖いのもしらず状態)は自然と攘夷になびいていきました。

5.幕府、不平等条約を結ぶ
孝明天皇に幕府の開国論についてお伺いを立てるも「攘夷」の一辺倒で意見がまとまらない状態が続きます。
幕府は天皇のお許しがでないことを理由に再三引き延ばし工作をはかります。
しかし、しびれをきらしたアメリカの「もう待てない」一言で天皇のお許しがでないまま、開国を強行決定してしまいます。

6.尊王攘夷派誕生
この一連の問題で、諸国の大名や武士達も心の中に眠っていた攘夷に目覚めます。

冒頭で紹介したように、もともと攘夷思想を持っていた大名や武士たちの多くは、自分たちと同じ攘夷を主張する「天皇」に賛同し尊ぶ(尊王)ようになっていきました。

一般にこれらの思想をあわせもった人を尊王攘夷派と呼んでいます。

しかし、単純に尊王攘夷派=反幕府派・倒幕派と考えてしまうのは間違っています。
佐幕派(幕府派)にも尊王や攘夷の思想をもつ人はいて、新撰組などは、まさに尊王攘夷佐幕派といえるでしょう。

本サイトでは混乱を少なくするため尊王攘夷反幕府派、尊王攘夷佐幕派などと表記することにしています。

※倒幕を成し遂げた長州藩の思想は、時代と共に変化していきます。
ステップ1 尊王攘夷反幕府派 当初は幕府の弱腰姿勢を非難するだけで、倒幕までは考えていませんでした。
ステップ2 尊王攘夷倒幕派 桜田門外の変、公武合体を経て、反幕府派は「もう幕府には任せておけない」という倒幕思想に変化していきます。さらに単独で攘夷決行に踏み切りイギリスに攻撃を仕掛けました。
ステップ3 尊王開国倒幕派 イギリスに猛反撃(馬関戦争)され惨敗した長州藩は、「現状の力では外国に太刀打ちできない」ことを実感。攘夷一辺倒の考えを捨て、外国から近代兵器を仕入れはじめます。

7.安政の大獄と桜田門外の変
開国に反対する大名や武士・公家たち(尊王攘夷反幕府派)は、幕府の弱腰姿勢と天皇の許しがでないまま条約を結んだと非難します。
それに対し、大老井伊直弼は、幕府に反対するものを捕らえて処刑しました。これを安政の大獄といいます。

これにより尊王攘夷反幕府派の怒りが爆発。井伊直弼は水戸藩士により暗殺されてしまいます。
(桜田門外の変)

この事件は大老ともあろうお方が白昼、いとも簡単に暗殺されてしまったことから、幕府の権威が損なわれ、
このころから尊王攘夷反幕府派の人たちの中に「幕府を倒せるのではないか」という心が芽生えはじめます。
※天皇は攘夷でも反幕府主義ではありませんでした。

8.幕府方針変更、公武合体へ
「公」とは朝廷、「武」は幕府、つまり公武合体とは、朝廷と幕府が歩調を合わせ、国難を乗り切ろうとする政策です。

幕府は、その権威を再び天下に示し、過激な尊王攘夷反幕府運動を抑制するため、孝明天皇の妹「和宮(かずのみや)」と「徳川家茂(いえもち)」を結婚させようとします。

もともと、幕府の開国政策に批判的だった孝明天皇は難色を示しましたが、「いずれ幕府は攘夷を決行する」というできもしない約束を交換条件とし、この結婚が成立しました。

この後、近藤勇率いる新撰組は、この「いずれ幕府は攘夷を決行する」という情報を信じ天皇のため、幕府のため戦っていきます。

9.武士になれるチャンス到来!家茂上洛と浪士組の結成
いつまでたっても攘夷を決行する気配をみせない幕府に対し朝廷は催促。
結局、家茂自ら上洛し協議する運びとなりました。

それに伴い幕府は、清河八郎が中心となり、将軍上洛の警護を浪士から募集しました。

幕府がついに攘夷を決行する。そしてその攘夷に参加できる。日頃から尊王攘夷を論じていた試衛館のメンバーは興味を持ちました。また近藤勇や土方歳三は、この時を武士になれるまたとないチャンスとしてとらえました。

攘夷のために上洛する将軍を警護すると幕府に知らされていた試衛館のメンバーですが、攘夷など決行できないとわかっていた幕府は、江戸の浪士で京都にいる尊王攘夷反幕府派の浪士達を鎮圧するというのが真の目的でした。

さらにその幕府も清河八郎に騙されることになります。

10.浪士組の分裂
京都到着早々、清河八郎は浪士組に対し次のようなことを伝えます。

「この浪士組は、幕府主導による攘夷のためではなく、朝廷主導による攘夷のために行動する」
「これより、戦争がいつ始まるかも知れない江戸に戻り攘夷戦に備える」

これに対し近藤勇と芹沢鴨は道理に合わないと反論、京都に残留し将軍の警護にあたることを決意します。

清河八郎も近藤勇も芹沢鴨も尊王攘夷の志をもっていましたが、その実行に幕府を介在させるか否かで分裂してしまいました。

11.壬生浪士組の結成
京都に残留した近藤・芹沢グループは、京都守護職、会津藩の配下となり壬生浪士組を結成します。

京都守護職
会津藩主・松平容保
局  長
芹沢鴨 近藤勇
副  長
新見錦 山南敬介 土方歳三
副長助勤
沖田総司 永倉新八 原田左之助 藤堂平助 井上源三郎 斎藤一 
平山五郎 佐伯又三郎平間重助 野口健司 尾形俊太郎 松原忠司 安藤早太郎
諸士調役兼監察
島田魁 川島勝次 林信太郎
勘 定 方
河合耆三郎


12.初めての公務
二条城に入っていた将軍家茂が大坂の海防状況を巡視することになり、その警護のため同行しました。
彼らはこの晴れ舞台で初めてだんだら羽織を身にまといました。

13.八月十八日の政変〜長州藩、京都より締め出される〜
朝廷の長州系公卿たちは、孝明天皇の大和行幸(攘夷を祈願するために大和の国などに参宮に出かける計画)を機に倒幕の兵を挙げようと考えていました。

一方、当時佐幕派だった薩摩藩はその行動を阻止すべく即座に行動を開始、孝明天皇の意見にお伺いを立てる。

ここで、天皇が倒幕の意志を持っていないことを明確に表明したことで、長州系公卿及び長州藩は京都より締め出されてしまいます。

このとき壬生浪士も出動、後に朝廷から一人一両の褒美が下されるとともに
「新撰組」という隊名が下されました。

14.局中法度の制定と芹沢グループの静粛
新撰組は当初、内部の統制がとれず、いかがわしい集団としてみられていました。

その原因は、隊士のほとんどが公募で集まった烏合の衆だったこと。
そしてもう一つは「京都守護職御預かり」の名のもと悪行を繰り返す芹沢グループでした。

近藤と土方は、局中法度と呼ばれる厳しい規律を制定、さらに風気を乱す芹沢グループを静粛しました。

局中法度(禁令五ヶ条)
一.士道に背きまじきこと
二.局を脱するを許さず
三.勝手に金策いたしべからず
四.勝手に訴訟取り扱うべからず
五.私の闘争を許さず


右の条々あい背き候者は切腹申しつくべき候なり
芹沢グループの粛清
・芹沢鴨(暗殺)
・新見錦(切腹)
・平山五郎(暗殺)
・野口健司(切腹)
・平間重助(逃亡)

以後、非情な規律で統率された新撰組は、近藤、土方を中心に京都の警護集団として歴史の表舞台に立つことになっていきます。

15.池田屋事件〜長州藩、反撃の計画段階で芽を潰される〜
事件の発端〜京都焼き討ち計画〜
八月十八日の政変で京都を締め出された長州藩は巻き返しを計画していました。
御所を強い風の日に焼き払い、孝明天皇を長州に連れ出し、京都守護職ならびに所司代を討ちとるという過激な内容でした。

計画グループの捜査
一方、新撰組はこの不穏な空気を察知、内偵や取り締まりを強化していました。
そして、一人の不審者が浮かび上がりました。
新撰組の内偵により捕らえられた不審者の名は古高俊太郎。
拘束後、土方歳三の激しい拷問の末、京都焼き討ち計画の陰謀を白状します。

近藤勇は京都守護職・松平容保に報告、近藤隊、土方隊、井上隊の三隊に分かれ、
計画グループの捜査を開始します。

池田屋突入
やがて近藤隊八名が長州藩定宿池田屋で密会している長州・土佐・肥後の浪士を発見。
近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の四名が池田屋に突入し乱戦になりました。

やがて騒ぎを聞きつけた土方隊や井上隊が加勢。
乱戦は二時間にも及び、倒幕浪士七名を斬殺、二十一名を捕縛しました。

乱戦が終わりに近づいた頃、数百人にも及ぶ会津藩兵が池田屋周辺を取り囲んでいましたが、
彼らの助けは受けず(というより手柄を横取りされるので加勢させなかった)、新撰組単独(わずか三十四名)で事件を終結させました。

新撰組の名は全国に轟き、一躍、歴史の表舞台に立つことになりました。

16.禁門の変〜長州藩、反撃実行するも失敗〜
八月十八日の政変に続き池田屋事件の報告を受けた長州藩は憤慨、京都に向けて進軍を開始します。

京都に到着した長州軍は、迎え撃つ幕府軍(会津藩兵、新撰組)と戦闘を開始しました。
しかし、結果は幕府軍の圧勝に終わりました。
この戦闘は、最大の激戦地が御所の蛤(はまぐり)御門付近だったことから「蛤御門の変」とも呼ばれています。

会津藩や新撰組で構成された幕府軍は、孝明天皇の信任を受けて戦ったいわゆる「官軍」、
一方、天皇のいる御所に向かって攻撃した長州藩は「賊軍」となり朝敵というレッテルが貼られた。

17.新撰組に吹き荒れる粛清の嵐
池田屋事件、禁門の変と大仕事を成し遂げた新撰組はまさに全盛期を迎えていました。

と同時に、禁門の変以降、烏合の衆を統率するために制定した局中法度が、粛清の嵐を巻き起こします。
簡単に言えば近藤・土方中心の組織に背いた者、背く可能性がある者を、局中法度の違反者として仕立て上げ粛清したということです。

粛清は試衛館時代からの同士・山南敬介や藤堂平助にも及び、決して例外を作らない非情な規律に隊士達は震え上がりました。

1.総長・山南敬介(切腹)
2.会計方・河合耆三郎(斬首)
3.六番隊隊長・長谷三十郎(斬殺)
4.五番隊隊長・武田観柳斎(斬殺)
5.参謀・伊東甲子太郎(暗殺)
6.八番隊隊長・藤堂平助(斬殺)


18.薩長同盟〜どん底長州藩の復活〜
馬関戦争敗退、八月十八日の政変による京都からの締め出し、池田屋事件、禁門の変敗退とどん底状態にあった長州藩は、勢いを盛り返し油断気味の幕府、内部闘争に明け暮れる新撰組を横目に、桂小五郎、高杉晋作、村田蔵六が中心となり、倒幕に向け虎視眈々と準備を進めていました。

その一つは、坂本龍馬がとりまとめた薩長同盟。
そしてもう一つは、外国の近代兵器による武装化です。
→薩摩藩が仕入れた武器を坂本龍馬が設立した海運会社・亀山社中が仲介、長州へ受け渡しました。

かくして、長州藩は坂本龍馬の活躍や薩摩藩の協力を得て完全な臨戦態勢を整えるようになりました。

19.長州征伐〜長州藩の圧勝〜
幕府は、八月十八日の政変、池田屋事件、禁門の変に対する制裁として長州征伐を決行します。

しかし、幕府軍は近代兵器で武装された長州藩を前に惨敗します。

20.時代が変わる(その2)〜大政奉還と王政復古〜
薩長同盟の成立、長州征伐の敗退で、幕府の命運は刻々とその終焉のときを迎えようとしていました。

幕府は、長州征伐のさなか死去した徳川家茂の後を受け、英明と謳われていた徳川慶喜を第十五代将軍に推し、倒幕派に対抗しようとした。

しかし、時勢はもはや止めようもなく「大政奉還(政権を朝廷に返上すること)」、「王政復古(天皇自身が政治を行うこと)」の大号令を迎えることになりました。

これにより、徳川家康以来、約260年続いた徳川幕府はついに滅びました。

21.戊辰戦争・鳥羽伏見の戦い〜新政府軍(官軍)VS旧幕府軍〜
王政復古により、徳川幕府は滅びたものの、旧幕府軍は徳川慶喜を総大将とし巻き返しをはかりました。

新撰組ら旧幕府軍は薩摩討つべしと京都に進軍、総数一万五千人。
むかえうつ薩摩、長州、土佐の新政府軍、総数五千人。

伊東甲子太郎派残党に襲撃され負傷していた近藤勇は参戦せず、土方歳三に全てを託しました。
土方歳三率いる新撰組は、伏見奉行所に陣を張り戦いに参加しました。

しかし、旧幕府軍は兵力こそ上回っていましたが、銃火器の装備では圧倒的に劣っいました。
新政府軍は錦の御旗をひるがえし官軍として戦っていることをアピールします。

劣勢に立たされ、さらに賊軍となることを嫌い、会津藩、桑名藩以外の諸藩は寝返り、さらに総大将徳川慶喜までもまだ戦っている兵を残し江戸へ逃げ帰ってしまいます。

総大将を失った旧幕府軍は総崩れになり、土方歳三も「もう刀槍の時代ではない」の一言で隊士に敗走を命じました。

この戦いで井上源三郎を失うとともに、これまで刀と槍で戦ってきた新撰組の快進撃は終焉を迎え、と同時に事実上、瓦解しました。

その後、新撰組は、江戸に帰還します。

22.甲陽鎮撫隊と勝沼戦争〜再起をかけた新撰組、しかし〜
江戸に帰った新撰組は、東進する新政府軍を阻止するため甲府へ出陣します。
その際、新政府軍を刺激させないため、新撰組の名前を伏せ、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)と改めます。

両者は勝沼付近の柏尾で開戦します(勝沼戦争)。
しかし、圧倒的兵力と銃火器の前にわずか2時間で敗走してしまいました。

名前の変遷
新撰組→甲陽鎮撫隊(江戸)→新撰組(会津〜)
近藤勇→大久保剛(江戸)→大久保大和(江戸)→大久保大和(流山※勝沼戦争で名が知れてしまったため
土方歳三→内藤隼人(江戸)→土方歳三(会津〜)


23.新撰組の分裂
勝沼戦争に敗れた甲陽鎮撫隊(新撰組)は江戸に敗走。
永倉新八と原田左之助は、近藤勇に会津行きを提案すると、「自分の家来になるならばそれもよいが、そうでなければお断りする」と告げました。

新撰組は本来、同士の集合体です。
局長や副長、組頭などの役職がありましたが、それは組織を統率するためであり、家来と呼ばれるような主従関係で結ばれている訳ではありません。

近藤の言葉に怒った永倉と原田は「そうならば、これまで長々とお世話になった」とその場を立ち去ります。

こうして試衛館の仲間達で創りあげた新撰組は分裂してしまいました。

24.流山への転陣と近藤勇の捕縛
永倉、原田が去り弱体化した甲陽鎮撫隊(新撰組)は再起をかけ、流山に本陣を築きました。
しかし、新政府軍は流山に旧幕府兵(下表でいう「官軍と断固として戦うグループ」)が潜んでいるとの情報を即座にキャッチし、流山本陣を包囲します。

新政府軍(官軍)VS旧幕府軍の構図
新政府軍(官軍) 旧幕府軍
無抵抗(恭順)を主張するグループ 断固戦うべしと主張するグループ
徳川慶喜、勝海舟 榎本武揚、大鳥圭介
新撰組、彰義隊、白虎隊

内藤隼人こと土方歳三は、「新政府軍に恭順する幕府の方針に従い脱走兵や一揆を鎮圧する鎮撫隊であり、新政府軍に不敬はしない」こと説明。
それに対し新政府軍は、「鎮圧は新政府軍の任務、すぐに兵器を差し出し誠意を示せ」と迫ります。

土方はこれに従うと答え本陣内に戻ると、近藤勇は切腹の覚悟を決めていました。
しかし、土方はこれに異をとなえ、「大久保大和として出頭しあくまでも鎮撫が目的であった事情を説明しろ。その間俺は政治工作をし、救出するから」と説得します。

近藤はこれを了承します。

あくまでも大久保大和として新政府軍の前に出頭した近藤でしたが、不運にも新政府軍の中に京都で近藤勇を見かけたことがある兵士がいたため、大久保大和=近藤勇ではないかという疑いがかけられます。
近藤勇は捕縛され、その後の取り調べでその正体が暴かれてしまいます。

後に土方歳三は、このときの判断(切腹させなかったこと)を後悔することになります。

25.土方歳三の行動
流山で近藤勇を出頭させた土方歳三は、近藤救出工作のため単身江戸に潜入し、勝海舟らと面会、早期釈放を働きかけます。その時勝海舟は、新政府軍を刺激しないことを条件に救出を約束したと言われています。

その後、土方歳三は、旧幕艦隊を率いる榎本武揚、旧幕陸軍を率いる大鳥圭介らとともに、東進する新政府軍に抵抗しながら宇都宮→会津→仙台→箱館と北上していきます。

26.近藤勇・沖田総司の最期と土方歳三の決意
会津にいた土方歳三に近藤勇が斬首されたとの知らせが入りました。
公開処刑という極刑になるのであれば、流山で近藤勇が望むよう武士として死なせてやりたかったという悔やんでも悔やみきれない責任を感じることになりました。

そして、その数日後、近藤勇を追うように沖田総司がこの世を去りました(肺結核による病死)。

土方は、近藤、沖田のためにも最後まで戦うこと(=殉死)を決意します。

実際、次のようなことも語っていたといわれています。
「私が流山で近藤勇とともに死ななかったのは、幕府のえん罪をそそぎたがったからにほかならない、万が一、生き長らえることになれば、あの世で近藤にあわせる顔がない」

27.土方歳三の最期と新撰組の終焉
北上を続けた土方歳三は蝦夷地・箱館で新政府軍を迎え撃つことになりました(箱館戦争)。
土方はこれが最後の戦いになることを認識した上で、従者市村鉄之助に肖像写真などを故郷に届けるよう託しました。

そして、土方歳三は最期を迎えました。

土方の死から一週間後、榎本武揚は新政府軍に降伏し戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争は終結しました。
と同時に近藤や土方らがつくりあげてきた新撰組は、ここで完全な終焉を迎えました。


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