【天然理心流・試衛館とは】
〜近藤・土方・沖田を巡り合わせた武術の流派とは〜

1.いつ創られたのか?
江戸時代後期、太平の時代に形式化してしまった武術の流派が見直されて、それまでの長所を生かしつつ実用的な流派が創られる流れがおこりました。

そんな中、天然理心流は寛政初期(1789年頃)、近藤内蔵之助によって創始されました。

2.そのスタイルは?
天然理心流は剣術、柔術、棒術、気合術などを含めた総合武術で、小技に頼らず気力と気組で相手に対するという流儀です。

剣術では、竹刀ではなく握りが太く重い木刀を使って鍛錬するという実用的なものでした。



3.天然理心流の系統
天然理心流の宗家継承は血縁ではなく、出稽古先で優秀な者を見つけ出し、後継者にしていました。

初代 近藤内蔵之助 創始者。残念ながら彼に関する詳しい資料は残っていません。遠江(とおとうみ・静岡)出身で、神道流の流れを継ぎ、天然理心流を完成させたといわれています。
二代目 近藤三助
(坂本三助)
内蔵之助が死亡する直前に指名を受けました。腕前は師匠を凌ぐほど天才的で、さらに経営者としての手腕も発揮しました。

彼は戸吹村の自宅に道場をかまえながら広く出稽古を行い、百姓、町人など身分に関わらず入門を許したため、八王子から相州(神奈川)にかけて
飛躍的に門人数が増加しました。
三代目 近藤周助
(島崎周助)
三助の死後、後継者がなかなか決まらず、11年後の天保元年になって三代目を名乗ることになります。しかし、流派を完全に掌握していなかったようで、三助の門人は周助を離れそれぞれ独自に活動を始めてしまいます。

三助の基盤を継ぐことができなかった周助は、新たな地盤を開拓する必要がありました。そこで目をつけたのが、八王子の東に位置する一帯で、その中には調布や日野など近藤勇や土方歳三の故郷となる地域もありました。

やがて、周助は
江戸の市ヶ谷に試衛館を開きます。そしてこの道場から新撰組で中核をなした剣士たちを輩出することになるのでした。
四代目 近藤勇
(島崎勝太)
勇の父・久次郎が所用で留守にしていたある夜、勇は留守番をしていました。しばらくすると賊の侵入に気づきます。わずか16歳だった勇は冷静沈着に賊を退治します。

この武勇伝は村中に広がり、やがて出稽古に訪れた周助の耳にも入ります。57歳ながら跡取りがなかった周助は、このとき勇を養子に迎えることを決心します。


勇は技量だけではなく、誠実で温かい心をあわせもっているており、そんな人間性にひかれ、いつしか多くの人が集まるようになっていきました。

4.田舎剣法たるたる由縁
需要
天明の飢饉などにより治安が悪化していた時代背景にあって、特に幕府の直轄地である天領の多い武州(東京都)多摩地方では、派遣された代官に治安の保障は期待できず、町人や百姓の間にも自衛の必要性が高まっていました。

供給
そんな状況の中、江戸薬研堀に道場を開いた内蔵之助は、多摩地方へ出稽古に歩きます。その結果、武州多摩郡と相州に数多くの門人が分布するようなりました。また、さらに二代目三助は八王子を中心に、周助は日野や調布を中心に門人を集めていきました。

名門と田舎剣法の分かれ目
天然理心流と同じ幕末に創始され、江戸に道場を構えた北辰一刀流・玄武館は、全国各地の藩士たちを集めます。やがて藩士たちは、それぞれの藩地にその流派を持ち帰ることにより全国的に発展していきました。
一方、発展期に地方を中心に門人を集めてしまった天然理心流は、地元民が多く、結果として全国的に発展することがありませんでした。


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