【長州藩・攘夷派久坂玄瑞と開国派桂小五郎】
〜5.10長州藩は単独で攘夷を決行〜

1.五月十日は攘夷決行の日
和宮降嫁による公武合体の交換条件として攘夷を約束していました。
しかし、開国策をとっている折から、実際に攘夷など決行できるはずもなく、朝廷からの再三の催促に応じかねているのが実状でした。

朝廷は最終手段として、攘夷決行を催促する勅旨(天皇の言葉)を携えた使者を幕府につかわせ、今度こそ何らかの返答を求めます。

さすがにごまかせないと判断した幕府は、将軍家茂が上洛し攘夷について協議をすることを決定します。

上洛後幕府は、文久三年五月十日に攘夷を決行することを約束します。

これらの実質的な取り決めは将軍後見職一橋慶喜が行いましたが、その場限りの言い逃れとしか思えないこの約束をした直後、慶喜はすぐ江戸に戻り辞職を願い出ます。しかし、こんなトカゲのしっぽ切りのような行為は認められる訳もなく却下されてしまいます。


2.久坂玄瑞率いる長州藩・攘夷決行
幕府が攘夷を行えないということは、既に知っている人は知っている状況であり、まさか幕府がこの日に攘夷を決行するなどとは誰も思ってなかったでしょう。

しかし、五月十日攘夷決行という天皇との約束を守った藩がありました。
それが長州藩です。

この日長州藩は尊王攘夷家・久坂玄瑞が中心となり、まず、下関海峡近くの田野浦に停泊中のアメリカ商船に砲撃します。沈めるには至りませんでしたが、逃げるアメリカ船を見て長州藩は皆絶叫して喜んだといいます。

その後もフランス艦、オランダ艦にダメージを与えることに成功します。

しかし、これらは抵抗力がない商船を狙ったり、あるいは不意討ちや地の利によって得た成功にしかすぎません。

ここで油断してしまった長州藩は、この後、馬関戦争によって猛反撃をくらうことになってしまいました。


3.その頃桂小五郎は?
同じ長州藩の桂小五郎は、「攘夷、攘夷」と叫び視野が狭まっていく過激な倒幕尊王攘夷運動を危険視し、長州を割拠して藩の強化策に努めようとしていました。ちょうどこの月、桂小五郎と村田蔵六(大村益次郎)は、ひそかに長州藩士15名を選抜しイギリスに留学させていました。その中には後に千円札となる伊藤博文の名もありました。

ここで注意しなければならないのは「開国」という意味です。
彼らにとっての開国とはあくまでも富国強兵のための手段であり、武力などの近代的な技術を修得し、いつの日か列強と互角に戦える国をつくるということが最終目標でした。

安易に国を開いて、列強の植民地とされることを望まない、つまり、攘夷を最終目的とした仮の開国だったのです。


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