【薩英戦争】
〜列強との戦争から教訓を得た薩摩藩に対し、幕府の反応は?〜

1.きっかけは生麦事件に対する賠償要求
薩摩藩士による生麦事件の賠償問題をめぐり、薩摩藩はイギリスの要求に一向に応じませんでした。これに怒ったイギリスは七隻の軍艦をもって鹿児島湾に迫ります。

ペリーと同じく、軍艦の威容をもって再度談判に臨もうとしたイギリスでしたが、薩摩藩は既に臨戦態勢を整えており、談判に応じない姿勢をとりました。

かくして交渉は決裂し、戦闘が開始されました。

薩摩藩は善戦しましたが、当時最新鋭の武器が備えてあったイギリス軍艦の攻撃はすざましく、鹿児島市内は廃墟と化します。しかし、もともと威嚇を目的としていたため、燃料その他が満足に搭載されておらずここで退去。致命的な攻撃を与えるには至りませんでした。


2.列強との戦争から教訓を得た薩摩藩であったが、、、
薩摩とイギリスはお互いの力関係を知ったことで密接な仲になっていきました。

薩摩藩は、「現在の日本にある武器では列強と戦うことは不可能なので、とりあえず開国し外国から諸技術を学び富国強兵に努める。そして列強と渡り合える日本を形成した上で再度攘夷にあたるべきである」ということを悟ります。(この時点で薩摩藩はまだ佐幕派だったので、幕府を中心にこのような国をつくるという意味を示していたと考えられます)

後に、薩摩藩は、薩英戦争から得たこのような教訓を朝廷に対し説明します。しかし、薩摩藩のような外様諸藩が朝廷に影響を持つことを気にくわない幕府は、それが正論とわかっていながらも薩摩藩をけん制するため、「攘夷」に方針を転換してしまいます。

さらに、薩摩藩に謀反の疑い(実際に薩摩藩はそのような気はなかった)までかけてしまい、その結果、薩摩藩は幕府から離反していくことになりました。その後、薩摩藩は長州藩と薩長同盟を結び完全に幕府と対立する勢力になっていきました。


繰り返される歴史
このように、全く価値がない「見栄」と「プライド」と「保身」の心は、自分たちの否をわかっていながらも自分たちの否を信じたくないという組織や指導者をつくりあげてしまいます。これは、幕末の指導者たちに限って言えることではなく、太平洋戦争の日本の指導者にもあてはまります。さらに現代においても、どこぞの国の指導者が同じことを繰り返そうとしています。

そしてこういった歴史はいつも、見栄もプライドも保身の心もなく、誰の否であるかわかっている全く罪のない人たちのにまで影響が及んでしまいます。


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