【八月十八日の政変】
〜長州藩士の追放と七卿落ち〜

☆登場人物の整理
尊王攘夷倒幕派 公武合体派
長州系七公卿 孝明天皇
中川宮(皇族)
真木和泉(久留米藩)
長州藩
会津藩
薩摩藩
天誅組 新撰組


1.背景
京都では、真木和泉(久留米藩)と彼を厚遇する長州藩士たちの倒幕運動が活発になっていました。

彼らは、長州系の公卿らと孝明天皇の攘夷親征(天皇自ら出陣すること)の詔(天皇の言葉)を得ようと画策していました。

攘夷親征の詔を得れば、攘夷を決行しない幕府の政策は天皇の詔に反しているという大義名分も得ることができ、それを理由に幕府を一気に滅ぼしてしまおうを目論んでいました。

2.大和行幸をでっちあげる
8月13日、朝廷で大和行幸が決定されます。
大和行幸とは、大和国の神武天皇陵、及び春日大社で攘夷を祈願し、さらに攘夷親征の軍議を行い、伊勢神宮まで参宮するというものです。

といっても、これは長州系公卿たちが朝廷内でうまいことでっち上げた偽勅で、孝明天皇の知らなところで決められてしまいました。

孝明天皇は確かに攘夷思想ではありましたが、倒幕という意識は全くありませんでした。よって当時の状況から考えれば、このような決定はあり得ない話なのです。

3.天誅組の乱
しかし、当時の過激尊王攘夷派は、こんなとんでもない話でも都合のいいようにとらえていました。

その最も典型的な例が、土佐藩を脱藩した吉村寅太郎が中心となって結成された天誅組です。

彼らは、倒幕は時期尚早と考える真木和泉の説得を振り切り挙兵、京都五条の代官所を襲撃します。これを天誅組の乱といい、幕末史において初の倒幕を意識した挙兵となりました。

4.「天誅組の乱」どころではない会津と薩摩のもっと大きなの計画
しかし、過激尊王攘夷倒幕派がそうこうしている間、会津藩や薩摩藩はもっと大きな行動を計画していました。

それは、そうこうしている連中、つまり長州系尊王攘夷倒幕派を一式、京都から締め出してしまおうという計画でした。

攘夷親征を不審に思うと同時に長州藩に政局を乗っ取られるのではないかと危機感をもった薩摩藩は、その日(8月13日)の夜、会津藩に接近します。

まず双方、攘夷親征は偽勅であるに違いないと考えが一致。
さらに天皇の意志に反する偽勅を出してまで、天皇を味方につけようとする無礼な長州系の者たちを京都から排除してしまおうという考えで合意。
長州排除のために同盟を結ぶことになりました。

5.八月十八日の政変
薩摩と会津は、念のため、中川宮(皇族)を通して攘夷親征が偽勅であるか否かを天皇に確認してもらいました。

そして予想通り、それが偽勅であると判明します。

その後、兵力をもって処理するようにと勅使が派遣され、18日未明、会津藩、薩摩藩、淀藩によって御所の全ての門(中には長州藩が担当していた門もありました)を封鎖し、長州系の者が中に入れないようにしてしまいました。

6.七卿落ち
異変に気づいた長州藩は、御所に駆けつけますが、もはや一歩も近づけない状態になっていました。

長州藩士たちは激突も辞さない意気込みでいましたが、ここはひとまず長州に下がって体制を整えるべきと結論をだした桂小五郎ら首脳部が必死に押し止め、戦闘は回避されました。

そして、翌19日、長州兵は長州系七公卿を護衛しながら京都を去り、長州へ落ちていきました。これを七卿落ちといいます。

7.壬生浪士は?
当の壬生浪士は、先の大和屋焼き討ち事件のことなどから、ある程度落ち着いてからの出動と判断されていたらしく、出動は事態が落ち着いた18日の正午くらいになりました。

御所の蛤御門に到着した壬生浪士は、その場所の守備を担当していた会津藩に御所内の警備にあたるので中に入れてくれを告げました。しかし、そこにいた会津藩士たちは、なんと壬生浪士のことを知らず、「不審者は通すわけにはいかない」と拒否しました。

そこで登場したのが芹沢鴨。
会津藩に向かって悪口雑言を口にしながら通せ通さないの押し悶着が続きました。

その後、この知らせを受けた会津藩の軍事奉行や公用方が駆けつけ、事態はようやく収拾。壬生浪士は御所の南門の警備が割り与えられました。


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