【明保野亭事件】
〜土佐と会津の争いを解決したのは武士道だった〜

1.会津藩士を新撰組へ応援として派遣
池田屋事件から凱旋した翌日、ただでさえ少なかった隊士を死傷させた新撰組に、柴司(しば つかさ)ら5人が応援として派遣されました。


2.不逞浪士が潜伏する明保野亭へ
池田屋事件後も不逞浪士を掃討すべく出動を続けていた新撰組は、明保野亭(あけぼのてい)という料理茶屋に長州20人が潜伏しているという情報を得ます。

早速、武田観柳斎をリーダーとする新撰組隊士15人と応援の会津藩士5人、計20人で出動しました。

池田屋事件と同様に表口と裏口を固めた後、屋内の捜索か開始されました。


3.事件発生
捜索開始後しばらく長州の姿はないように思われましたが、突然屋内から2人の不審者が飛び出してきました。

武田観柳斎は近くにいた会津藩士・柴に向かって、
「取り逃がすことなく、討ち取るように」と声をかけました。
そして、柴は手にしていた槍で不審者を突きました。

しかし、この不審者と思われた人物は、長州の不逞浪士ではなく、麻田時太郎という正真正銘の土佐藩士でした。

これを耳にし激昂した土佐藩は明保野亭に集まり、会津藩本陣、新撰組屯所への襲撃の検討をはじめます。土佐藩上層部の説得もありとりあえず襲撃は回避しましたが、事件は会津藩・土佐藩間の問題に発展していきます。


4.武士道が事件を解決
土佐藩の上層部には公武合体論を押す思想もあり、会津藩との争いは避けたいというのが本心だったのでしょう。
事件翌日、負傷した麻田は自らの士道をたてるため土佐藩邸で自刀します。
これに対し柴も「私一人のことで土佐藩と仲違いしてしまうのは誠に恐縮なので、切腹します」といって自刀しました。

現代では考えがたい責任の取り方により、事件は解決へと向かいました。

柴の葬式には、土方歳三、井上源三郎、武田観柳斎らが参列し、号泣して嘆き悲しんだと記録されています。

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