【禁門の変(蛤御門の変)】
〜八月十八日の政変、池田屋事件に憤慨した長州藩の反撃〜

1.長州藩の出兵
柴司の葬儀が行われた6月13日、長州藩本国に池田屋事件の報が到着します。
昨年の八月十八日の政変以来、収まることのない長州藩の怒りは頂点に達します。

この頃、長州藩は上京し、無罪を訴えようとしていました。
しかし、八月十八日の政変で長州系の公卿が締め出され京都との連絡口は遮断されていたためどうすることもできません。

当時の事情から尋常な手段では京都復帰はできないと判断した長州藩は、威嚇の意味もこめて京都への出兵を決断します。

名目は赦免嘆願、手段は兵による威嚇、それが通らなければ一戦に及ぶ覚悟でした。


2.京都に到着した長州藩
ぞくぞくと京都に集まってきた長州兵は各地に布陣します。

長州藩は赦免嘆願を再三願い出ましたが、幕府側にしてみれば喉もとに刀を突きつけられた状態で「長州の復帰」を願い出られても、面目上、また心情的にも朝廷にとりなすことはできません。

逆に、再三、兵を引くように命じました。





3.新撰組の出陣
長州兵に備え、新撰組にも出陣が命じられます。
伏見からの侵入ルートとなる竹田街道を警備しました。

このとき、会津藩とともに鴨川の九条河原に宿陣することになりますが、
この陣には山南敬介沖田総司の姿はありませんでした。
山南は春以来の病が治癒しておらず、沖田は池田屋事件以降体調が万全でなかったためです。


4.禁門の変開戦(新撰組は全体的に後手にまわる)
膠着状態が続く中、ついに勅旨をもって「このような挙にでることは認められない」という孝明天皇の意志が長州側に通達されます。そしてついに京都への進軍を決意することになりました。

まず、伏見から北上した長州兵と前線を守備していた大垣兵が激突。
知らせを受けた新撰組は九条河原から応援に駆けつけますが、そのとき既に伏見の陣を指揮していた福原越後が被弾しており、退却しつつありました。新撰組は長州兵の追撃にあたりました。

尚、ここから始まった一連の戦いを「禁門の変」といいますが、
最大の激戦地が御所の蛤御門付近だったことから「蛤御門の変」とも呼ばれています。


九条河原に戻った新撰組は、御所方面から砲声が轟き、黒煙が立ちのぼるのを目撃します。嵯峨から進撃し御所に迫った長州兵と幕府軍が戦闘を開始していました。

御所の蛤御門付近に殺到した長州兵は、これまでの怨恨もあって会津兵を押しまり門内に侵入します。しかし、突如現れた薩摩兵に側面を疲れると、来島又兵衛が狙撃弾を受けて戦死。長州兵は総崩れとなりました。



また、山崎に布陣していた長州兵も、御所南の堺町御門からの侵入を試みるも失敗。長州藩に好意的だった門脇の鷹司邸に入って、久坂玄瑞が長州藩の赦免を嘆願したいと参内の供を願い出ますがこれも拒まれてしまいます。その時既に鷹司邸は幕府軍に包囲されており、万策尽きた久坂玄瑞は邸内で自刀しました。

新撰組が御所周辺に到着したとき、すでに蛤御門を中心に展開されていた戦闘は、ほぼ長州兵の敗北が決していました。

新撰組は御所周辺に残存する長州兵の掃討を行いました。

トップ