【第一次長州征伐】
〜西郷吉之助(隆盛)の思惑〜

1.幕府の制裁
幕府は、

・八月十八日以前の長州藩の行状
・池田屋事件の原因となった京都焼き討ち計画
・御所に向けて発砲した禁門の変

の制裁として、徳川慶勝(松平容保の実兄)征長総督率いる、35藩、15万人の大軍をもって長州を包囲します。


2.しかし、戦争は起こらなかった
征長軍は、長州を包囲したものの、いつまでたっても戦いは始まりませんでした。
この頃、どの藩も財政難に悩んでいたため、戦争を避けたいのが本音でした。

そういった状況の中、征長軍の参謀を務めていた西郷吉之助は、「長州の三家老、国司信濃、益田右衛門介、福原越後の首を差し出すこと」などを条件に折り合いをつけようとしました。

この頃、薩摩藩は、幕府内で強い発言権をもっており、その政治的中枢部を担っていた西郷の意見は、征長軍首脳に受け入れられ、さらに長州側もこの条件を受け入れました。

こうして、諸藩の事情と西郷の提案が合致し、12月27日、全軍撤退が決定。
結局、一度も戦闘に至らないまま第一次長州征伐は幕を下ろしました。


3.西郷の本音
戦争回避を成功させた西郷ですが、本音は別のところにありました。

西郷は、第一次長州征伐のさなか幕臣・勝海舟と会見していました。
そして勝から幕府の腐食ぶりと諸藩連合の構想を聞きました。

勝は、幕府に政治を任せておく道理はもはやなく、薩摩などの雄藩が手を組んで、これに取って代わるべきであると説きました。

西郷は、幕臣である勝海舟の思いも寄らぬ構想に驚き、喜びました。
そして、その後、西郷は雄藩連合の共和政体の確立を目指し、薩摩藩を富国強兵策に統一していくのでした。

以上のような背景もあり、西郷は、今は国内で戦争をしているべきではないという思いに至ったのでした。

後に、発言力を増し、さらにこういった構想を持ち始めた薩摩藩は、謀反を起こすのではないかと幕府に警戒され始めます。

あらぬ疑いをかけられた薩摩藩は、次第に幕府から離れていき、
そして薩長同盟成立を皮切りに、佐幕から倒幕へ変貌を遂げることになりました。


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