【山南敬助の脱走と切腹】
〜脱走した理由とは〜

1.病気だった山南
新撰組出動表にある山南敬助の箇所をご覧になりお気づきになったでしょうか?

総長という地位にあった山南が「池田屋事件」、それに続く「禁門の変」の戦いに参加していません。

これは、山南が長期にわたり病気を患っていたことが原因であるとされています。
また、病状はかなり重く、多摩時代からの知り合いが、わざわざ壬生屯所を訪れたときであっても、面会すらできないという状況でした。


2.病気の原因と病名
攘夷集団として結成された新撰組でしたが、八月十八日の政変後、新撰組は幕府に命じられて市中見廻りを主な任務にするなど、攘夷という本旨を見失いつつありました。

純粋な尊王攘夷活動を理想としていた山南と、あくまでも幕府主導による活動を行おうとする近藤・土方の間には、次第と溝が生じ始めることになります。

実際、こういった新撰組の現状に幻滅する隊士も少なくなく、隊を脱走するものもいました。しかし幹部であった山南は簡単に脱走することもできず、このストレスが山南を精神的に追い込み、体調を崩させていきました。いまでいう、いわゆる鬱病(うつびょう)です。


3.きっかけとなった屯所移転問題
近藤・土方と山南との溝が深まる一方、新撰組の隊士の数は増加し、壬生の屯所が手狭になっていました。そこで近藤・土方は、より広くさらに長州藩に対して好意的な態度を示す西本願寺へ移転することを検討し始めます。

これに対し山南は、
「威力を僧侶に示して、転陣を迫り、その実は同寺の動向を探ろうとするのは、実に卑劣で見苦しいことではないか。屯所は西本願寺に限定して考えるべきではない。他に何ヶ所も候補地はある」と反対の意見を示しました。


4.そして脱走
しかし近藤は山南の意見を受け入れることはありませんでした。

このころ近藤は、尊王攘夷集団として結成した新撰組の局長という位置にありながら、松本良順の影響を受け攘夷が無意味であることを悟り、この自分自身の心境の変化が新撰組の方向に多大なる影響を与えていることを承知していました。そして、いつしか新撰組の体制を本来の姿(尊王攘夷)に戻すよう迫る山南を敬遠するようになっていました。

こういった近藤の心境を察した山南は最後の賭けにでます。
それは、今の新撰組の体質に抗議の意味を込めて隊を脱走することでした。

「私はいやしくも総長の職にあるのに、その意志が隊に反映されないのは、土方歳三らのためだ」

と書き置きを残して屯所を抜け出しました。
といいながらも本当に隊を去る気はない山南は、脱走前に自らの行く先を示唆し、驚いた近藤が寄こすであろう迎えの者を待っていました。


5.追手沖田総司
脱走した山南の意に反して近藤は以下のような態度を示します。

永倉新八が書き残した記録によると、
「山南の脱走を聞いた近藤には心中ひそかに喜ぶ様子が見えた」
とされています。

この真相は明らかにされていませんが、この時点で「脱走=切腹」ということはわかっていたはずです。

近藤は、試衛館以来山南と親しかった沖田総司を追手に差し向けます。沖田は、京都からわずか10数キロの大津宿にいた山南に追いつき、ともに壬生の屯所へ連れ帰りました。


6.山南敬助、切腹
屯所に戻った山南に近藤が示唆したのは、やはり切腹でした。

近藤と確執があった永倉新八、山南と同様に純粋な尊王攘夷を理想とした伊東甲子太郎が、再度の脱走をすすめましたが、自らの賭けに負け、武士としての運命を悟った山南はこれを受け入れることはありませんでした。

同日夕方、山南は切腹。享年三十三。
介錯は山南の希望で沖田総司が務めました。



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