【伊藤甲子太郎の離隊と御陵衛士】
〜伊藤甲子太郎の離隊作戦〜

いつ、なぜ離隊しようと思ったのか
伊東は、新撰組は尊王攘夷集団であり自らの志を貫徹できると信じ入隊しました。しかし、幕府を介在させる新撰組の尊王は、伊東にとって真の尊王ではありませんでした。

伊東は、このような近藤・土方の行動に疑問をもち、しばしば忠告していましたが、近藤・土方が全く聞く耳をもたなかったことから別行動をとろうと考えはじめました。

そして、1865年の暮れの広島出張で長州藩の実態を垣間見ることでその思いを強くしたようで、翌1866年、再度の広島出張では近藤と別行動をとりはじめました。



どうやって離隊するか:作戦その1
しかし、新撰組において離隊、言い方をかえれば分離といえども脱走と判断されかねません。そうなれば法度により切腹となってしまいます。

そんなジレンマに1年近く悩まされていた伊東は、1866年の暮れ、孝明天皇崩御の報を受けある分離策を計画し実行に移し始めます。

1867年元旦、伊東は自らの同士を引き連れ島原に遊びにでかけますが、どうした訳か、近藤グループの永倉と斎藤にも声をかけています。4日間遊び続けた3人は帰隊後謹慎処分となりましたが、これは離隊を見越して永倉・斎藤という新撰組トップクラスの剣客を戦力として引き込むための作戦でした。


どうやって離隊するか:作戦その2
18日になると、伊東は遊説に出発しますが、このとき同士にある策略を指示していました。策略とは尊王思想をもつ僧侶に孝明天皇の御陵衛士、つまり墓守職を新設してもらうことでした。この御陵衛士になるという大義名分があれば、幕府を介在させるとはいっても尊王自体には異論はない新撰組を堂々と離隊できると考えたのでした。

さらに伊東は、遊説先九州太宰府において、八月十八日の政変で都落ちしていた公卿やその取り巻きの志士たちに新撰組から分離する計画を説明しました。



どうやって離隊するか:作戦その3
伊東が帰京すると「孝明天皇御陵衛士」が下されたとの知らせが待っていました。さっそく伊東はその翌日、近藤、土方に新撰組から分離したい旨を申し出ます。

「この度は薩長へ間者(スパイ)として入り込むために、局にいては不都合なので分離したい」
※分離の目的は、あくまでも反幕府の同盟を結んだ薩摩藩と長州藩の動向を探るためであり、新撰組隊士のままではまずい。現に先の広島出張時には新撰組という名前のため領内に入ることすらできなかった。だから、新撰組と分離するために御陵衛士を新設してもらった。


近藤・土方の反応
すでに伊東の真意を見抜いていた近藤・土方でしたが、なに知らぬ顔で応答し、その場で離隊を了承しました。

「思い通りにいった」と伊東が得意気に日記に書き記すほど、近藤・土方の演技は見事なものでした。



御陵衛士メンバー
伊東甲子太郎、三木三郎、篠原泰之進、新井忠雄、加納鷲雄、内海次郎
藤堂平助、阿部十郎、橋本皆助、毛利有之助、服部武雄、富山弥兵衛
(斎藤一)



分離の規約
分離にあたり、新撰組と御陵衛士の間では、これ以後、それぞれの隊への移籍を望む者があっても許可しないとの合意がなされました。

つまり、新撰組から御陵衛士に移籍を望むことはそのまま脱走と判断され切腹ということです。


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