【大政奉還】
〜倒幕に乗り遅れた土佐藩の一手〜

はじまりは「慶喜」 対 「薩摩藩」
第二次長州征伐の失敗、徳川家茂の死去、孝明天皇の崩御と幕府にとっては大きな痛手でしたが、新しく将軍に就任した徳川慶喜のもと急ピッチで幕府の強化を進めていました。

このころ幕府が抱えていたのは長州問題と、2年前から棚上げされていた兵庫港開港問題でした。そこで、この処理にあたり、

薩摩藩主:島津久光
土佐藩主:山内豊信
越前藩主:松平慶永
宇和島藩主:伊達宗城

の四候を召集し会議を開くことになりました。(四候会議)
実は、この会議、画策したのは薩摩藩で、これを機に雄藩連合の共和政体を樹立することを目論んでいました。つまり、両問題の解決のためというのはほんの建前で、興味はありませんでした。

薩摩藩の計画は、まず、会議の最初から幕府の方針にことごとく反対し、幕閣の政治力を否定。その上で四候が政治の主導権を奪い、共和政治を発動させようというものでした。

しかし、薩摩藩の意図はあまりにも見えすいていました。
慶喜は、薩摩藩の意図をはぐらかすように「みなさんの意見を伺いたい」としながらも、一方的に自分の意見を述べ、兵庫港は開港、長州藩については寛大な処分で決着をつけるという結論になりました。

結局、この四候会議は慶喜の恫喝に近い形で終了し、分裂しました。

これにより、平和的に政権を奪うことができないと判断した大久保利通と岩倉具視は、武力による倒幕への道を選択、「倒幕の勅許」」獲得に奔走しました。



土佐藩、倒幕路線に参加
そんな薩摩藩に対し、土佐藩の有志から会談の申し入れがありました。
この会談を仲立ちしたのは中岡慎太郎で、両者は京都で会見、武力倒幕を目指す「薩土密約」を結びました。


土佐藩の一手
倒幕路線に乗ることができた土佐藩でしたが、政治的には薩長の後追いをしている感が否めない。それを打開する切り札が提唱する「大政奉還」策でした。

大政奉還とは、
「幕府が自ら政権を朝廷に返上し、新政権の一員として参加する」
というもので、倒幕が実現し、かつ幕府も痛みを伴わないという、夢のような国政改革案でした。



大政奉還
薩摩藩は、大政奉還の策を承認したものの、現実的に不可能であろうと判断しあまり期待していませんでした。そして、従来通り武力倒幕を目指し突き進みことになりました。

これ以降の流れは、文章だとわかりにくいので表にしました。

幕府(徳川慶喜) 薩摩藩
10月3日 ・大政奉還建白書幕府に提出
・慶喜、即日目を通す
10月13日 ・各藩の重臣に承認を求める ・倒幕の密勅を得る
10月14日 ・朝廷に申し出る
10月15日 ・大政奉還の勅許を得る ・挙兵予定日

これにより、武力衝突はひとまず回避されました。と同時に徳川幕府260年の歴史は幕を閉じました。


慶喜があっさり大政奉還した理由
慶喜は、仮に政権を返上しても、朝廷にはどうすることもできず、結局は徳川が政権の中枢に座るものと考えていました。大政奉還から10日後、慶喜は将軍辞職願いを提出しましたが、案の定、朝廷はこれを受理する勇気がありませんでした。

また、薩長の力をあなどれないと認識していた慶喜は、薩長などの一部の藩による独断政治に対し懐柔策をとっておく必然性があると考えていました。


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