【王政復古の大号令】
〜八月十八日の政変の逆〜

王政復古の大号令
徳川慶喜の政略に終わった大政奉還に危機感を募らせていた倒幕派は、強引な手段に打って出ます。

12月8日(王政復古の前日)、御所内で開催された会議で、これまで朝敵とされていた長州藩の復権が決定されます。さらに、薩摩、土佐、芸州、福井、尾張の各藩兵に軍事行動が密かに命じられました。

明けて12月9日、大砲10門を携行する薩摩藩兵3000人をはじめする各藩の兵が、圧倒的な兵力をもって御所に侵入し、会津、桑名、紀州、大垣の御所守衛の番兵を御所から退けます。

会津藩は、この事態を知り出兵。一時緊迫した雰囲気になりましたが、そのまま兵を引き揚げ、戦闘は回避されました。

そして、その後、朝廷により、天皇中心の国家へ復帰が宣言されました。


窮地徳川家
慶喜の政治戦略として提出された将軍辞職願いがここで受理。
これにより征夷大将軍という地位を失いました。

また、総裁、議定、参与の三職が新たに設置されるのに伴い、
摂政、関白や京都守護職、京都所司代といった職制が廃止されました。

これにより、徳川慶喜、松平容保らは京都に滞在する名目を奪われてしまいました。

王政復古の大号令は、倒幕派にとって八月十八日の政変を逆にしたようなものとなりました。


挑発される徳川家
さらに、徳川家自体の処遇が話し合われ、官位と所領の半分(400万石)を返上するように迫りました。しかし、徳川としては2万人を超す幕臣とその生活がかかるこの命令に応じる訳にはいきません。

ではなぜこんな無理難題を押しつけたのでしょうか。

それは、徳川を挑発し武力で滅ぼしてしまおうという倒幕派の狙いがあったからです。
つまり、徳川が決して受け入れられない要求でなければならなかったのです。

案の定、旧幕臣たちは激昂し、武力による対決を訴えはじめました。



冷静な慶喜
この時、慶喜は大政奉還が失敗であったと悟ってはいたでしょうが、ここは冷静に対処。
激昂する兵士たちをまとめ大坂城に移り、事態の推移を見守ることにしました。


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