【鳥羽・伏見の戦い】
〜錦の御旗=官軍〜

きっかけは江戸
どうしても徳川家との開戦に踏み切りたい薩摩藩が次にとった挑発作戦のターゲットとなったのは、「江戸」でした。

江戸の薩摩藩邸では、浪士たちをあつめて、江戸市中での強盗や放火を繰り返させました。しかも、堂々と薩摩藩邸に引き揚げていきました。

旧幕府は薩摩藩に対し犯人の引き渡しを求めましたが、応じるはずはありません。
そして、ついに我慢の限界に達した江戸にいる幕閣たちは、慶喜の許しを得ぬまま薩摩藩邸への攻撃を命じてしまいます。

待ってましたとばかりに、品川沖に停泊していた薩摩藩翔鳳丸は直ちに抜錨、これを旧幕艦・回天が追跡し海戦となりました。

ついに薩摩藩の作戦は成功。戦闘状態に入りました。



鳥羽・伏見での戦い
この報が大坂に伝えられると、我慢に我慢を重ねてきた旧幕府軍は怒り爆発。
慶喜もこれを押さえることはできず同調。
旧幕府軍は、京都を目指し大坂城を出発しました。

鳥羽街道を北上し、鴨川にかかる小枝橋付近に到達したとき、薩摩軍の最前線部隊が立ちはだかりました。旧幕府軍は再三、道を開けるように申し入れましたが、薩摩藩は「朝廷に確認をとっている」とかわすばかりで埒があきません。

そしてついに旧幕府軍は、強行突破を通告し、進軍を開始しました。

それに対し薩摩藩は一斉射撃。
旧幕府軍は混乱しましたが、徐々に体勢を整え反撃開始。

これが戊辰戦争の幕開けとなりました。



一方伏見奉行所では
鳥羽街道での砲声を聞いた伏見でも戦闘が開始されました。

新撰組や会津が戦闘準備をするなか、御香宮に設置された薩摩藩の大砲からいきなり10発の砲弾が次々と着弾しました。

御香宮は伏見奉行所より高台にあり、距離はわずか150m。しかも、昼間のうちに照準を定めきっており、効果的な砲撃となりました。

その後、迫り来る敵を御香宮まで退却させましたが、地理的に不利であることから淀方面への撤退が決定されました。



錦の御旗
さて、この戦いで旧幕府軍が戦っているのは、薩摩藩です。
お互い朝廷は利用した過去はあるものの、あくまでも徳川家と薩摩藩という私戦です。

であるにもかかわらず、薩摩藩の本営が置かれた東寺に、新たに征夷大将軍に任命された朝廷の仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう)が入りました。
これは、薩摩藩優勢という戦況を見てのことでした。

そして、宮の脇には、天皇の軍であることを示す「錦の御旗(みはた)」がありました。つまり、薩摩藩は天皇の軍「官軍」であり、この旗を掲げる軍と交戦する軍は「賊軍」となることを示します。

当時の人は「賊軍になると、その汚名が後生まで語り継がれてしまう不名誉なことである」と考えていたため、これにより旧幕府軍はうかつに手を出せない状況になってしまったのでした。

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