【勝沼戦争と甲陽鎮撫隊】
〜近藤勇の誤算〜

徳川慶喜の警護と甲府出張
慶喜は、新政府軍に恭順の意を示すため、上野寛永寺で謹慎することになりました。近藤勇はその日登城し、慶喜の警護を命じられました。

約10日間、警護をすることになりましたが、その間に甲府への出張話が浮上してきます。
甲府はもともと幕府の直轄領であり、江戸西方の防衛拠点として位置づけられていました。

その甲府で、江戸に向けて進軍する新政府軍を待ち受け慶喜の恭順の意志を伝える、新政府軍に敵対するものがあればこれを鎮撫する、まして自ら暴動は起こさない、ということを条件に甲府へ出陣することを近藤が勝海舟に願い出ました。

これは、慶喜の謹慎の意志の尊重した上で、東進する新政府軍をなんとか阻止しようというものでした。

新撰組の変名とご褒美
甲府への出張に伴い、新政府軍を刺激させないため、新撰組の名前を伏せ、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)と改めることになりました。

同時に、近藤勇は大久保剛、土方歳三は内藤隼人と名前を改めた上、大名扱いに取り立てられました。

さらに、新政府軍をくい止めれば、ご褒美として100万石もらえるという話もありました。

故郷に錦を飾ったはいいが、、、
そして、江戸を出発します。
その際、近藤は沖田にも日野をみせてやろう配慮し、甲陽鎮撫隊に加えました。

甲州街道を進んだ一行が、故郷日野に到着すると、人々は大歓迎で迎えました。
近藤や土方は、しばしの間、故郷の仲間たちと酒を飲み語り合いました。

この時、近藤は右肩の銃創が痛んで杯と持つ右手が胸部より高く上がりませんでした。
つまり、剣士としての生命は既に断たれていました。


その後、日野を出発し、甲府城を目前にしたところで、新政府軍の甲府入りを知ることになりました。先に甲府城に入り交渉を有利に進めたいという近藤の願いは途絶えてしまいました。

近藤・土方の作戦
ここで、近藤と土方は二つの手を打ちます。

一つは、甲府の町奉行を通して、甲陽鎮撫隊が敵対勢力でないことを伝えるため、大久保剛の名で書状を送ること。

もう一つは、増兵し新政府軍と対等に交渉するため、土方が江戸に引き返し援兵工作をする。

というものでした。
書状の概要

この度、私たちは甲府の取り締まりを命じられて来ました。
ところが、すでに新政府軍がご入城されているとのことなので、
このまま、そちらに向かっては失礼だと思い書状を送りました。

私たちは抗戦するきはありません。
近隣を鎮撫した後、参上しますので、
もうしばらく、甲府城でお待ちください。


勝沼戦争
書状を読んだ新政府軍は、これを援軍を待つための時間稼ぎとみました。
新政府軍は急遽、進撃を開始することになりました。

これに対し甲陽鎮撫隊もやむを得ず抗戦しますが、圧倒的兵力に、わずか2時間で終わってしまいました。

この戦いは、鳥羽伏見の戦いを経験していない近藤が近代戦の洗礼を受けた戦いでもありました。

この報は、翌日には土方にも届いたようで、無駄を悟って甲陽鎮撫隊に戻りました。

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