義経まめ知識集
源氏・平氏・藤原氏って何?
平安時代、貴族は華やかな都の生活に慣れ、地方のことはかまわなくなりました。
世の中が乱れはじめたため、荘園の中の豪族や名主は、自分の土地や財産を守るために武装。これが武士の始まりです。
※荘園とは、貴族や寺社の私有地のことで、名手とは私有地を持っている農民のことです。
また、白河上皇は仏教を保護したので、寺院の荘園が増え、これを守るために寺でも武装した僧兵を置くようになりました。
豪族や名主は、地方に下ってきた皇族や貴族と主従関係を結んで武士団を作りました。
清和天皇の子孫が作った武士団が源氏で、桓武天皇の子孫が作った武士団が平氏となりました。
源氏は東日本の関東を中心におさえ、騎馬戦にすぐれていました。
平氏は西日本の瀬戸内海を中心におさえ、海戦にすぐれていました。
源氏と平氏が中央に進出したのは、保元の乱からで、源義朝と平清盛が勢いを強めていきました。
藤原氏は貴族のひとつで、大化の改新から奈良時代にかけて勢力をのばし、平安時代には政権を独占しました。

平氏全盛期の経緯と概要:(平清盛・・・渡哲也 後白河法皇・・・平幹二郎 源頼政・・・丹波哲朗 以仁王・・・岡幸二郎)
1156年の保元の乱で、白河天皇と崇徳上皇は争いましたが、源義朝(義経の父)と平清盛を味方につけた天皇が勝利します。
その後、平清盛と源義朝の争いになり、1159年の平治の乱で清盛が義朝を破り、武士として初めて政治の実権をにぎりました。
平治の乱の敗戦で、源義朝は殺害、頼朝や義経は追放されましたが、平氏についた源頼政だけは、乱の後も朝廷に仕えました。
※清和源氏には、河内源氏と摂津源氏があり、源義朝や頼朝、義経は河内源氏、源頼政は摂津源氏に属します。
平氏は、武士でありながら、藤原氏にならって貴族的な政治を行いました。
平氏は、300人の少年をスパイにして、京都の町をパトロールさせ、不満を口にする人を探らせました。
平清盛は、平治の乱から7年後太政大臣になり、さらに12年後、後白河法皇の院政をやめさせるなどして、勢力を増します。
※院政は、白河上皇が上皇の御所(院)で政治を行ったのが始まりです。
※天皇の位をゆずった後を上皇、その上皇が出家した後を法皇と呼びます。
清盛が太政大臣になった3ヶ月後、病気のため太政大臣をやめ出家します。その後、病気は治り、福原に別荘を構えました。
武士は貴族に威張られていたので平氏の政治に期待しましたが、次第に平氏が貴族のようになっていったため、反感を強めました。
また、一族中心の政治を行う平氏に対し、後白河法皇をはじめ、貴族や寺社も反感を強めました。
1177年、後白河法皇の側近は平氏打倒の計画を立てますが、事前に平氏に知れ参加者が罰せられました。(鹿ヶ谷事件)
1180年、後白河法皇の次男・以仁王(もちひとおう)は、源頼政のすすめで、源頼朝、木曽義仲らに平氏討伐の令旨を下しました。
※令旨(りょうじ)とは、皇太子、皇后など天皇以外の皇族が出した正式な命令書のことです。
頼朝の旗あげを聞いた平氏は、頼朝の軍はそれほど強くなるとは見ていませんでした。
頼朝の挙兵により、平氏全盛のピークが過ぎ去った頃、平清盛はマラリアで死亡します。
清盛の遺言は、頼朝の首を自分の墓の前に供えるようにというものでした。

頼朝と義経(源頼朝・・・中井貴一 源義経・・・滝沢秀明)
頼朝は、家来の才能、長所、短所を知り、どのように使ったらよいか知っていたすぐれた政治家でした。
頼朝と御家人たちとは、御恩(領地を守る)と奉公(命懸けで戦う)という関係だけではなく、心と心の人間的結びつきがありました。
頼朝には厳しい一面がありました。挙兵以来の重臣、上総介広常を謀反をたくらんでいるという理由で殺害しています。
頼朝は、相手を一度憎むといつまでも憎みました。
頼朝の親子兄弟の中で、出家したものを除き、殺されなかったのは頼朝だけです。
義経が黄瀬川で頼朝と対面しようとした時、頼朝の家来は弟に義経がいることを知りませんでした。
京都や奥州での幼少時代の義経については、はっきりわからず、伝説が多いようです。
義経に関する確実な資料が残っているのは、一ノ谷の合戦後、京都にいた1年間だけです。
義経は山賊たちとも交わり、放浪と貧困の中で、たくましく育った野性的な青年でした。
義経は頼朝の立場や考えをまったく理解しませんでした。
義経は頼朝の御家人を勝手に使ったり処罰しました。
義経は御家人の意見を聞かず独断専行で動き、さらに手柄を独り占めにする傾向もあったので、御家人から嫌われていました。

義経の家来(伊勢三郎・・・南原清隆 武蔵坊弁慶・・・松平健)
義経は、僧兵あがりや山賊あがりなどをよく家来にしたそうです。
義経の一番の家来は伊勢三郎で、後に木曽義仲の首を取り、平宗盛父子をとらえるなどの手柄をた立てました。
義経の家来として弁慶が最も有名ですが、実在の人物であったかどうかははっきりしません。
弁慶は、幼名を鬼若丸といい、熊野別当(役所の長官)・弁昌の子と伝えられます。
弁慶の名は「吾妻鏡」にも見られ、「平家物語」「義経記」や歌舞伎などで国民的英雄に作りあげられました。

常盤御前(常盤御前・・・稲森いずみ 一条長政・・・蛭子能収)
義経の母常盤は、白拍子(しらびょうし)といわれる歌や舞を職業とする人でした。
常盤には、源義朝を父とする3人の子供がいました。今若、乙若、そして牛若(義経)です。
死も覚悟し平氏に出頭した常盤でしたが、清盛は、常盤の美しさに心を奪われ、自分のそばにいることを条件に義経らを助けました。
今若、乙若の2人の兄は、ともに出家(家を出て、仏道の修行を行うこと)しました。
平清盛と結ばれた常盤でしたが、その後、清盛のもとを離れ貴族の一条(藤原)長成と再婚します。

奥州藤原氏(藤原秀衡・・・高橋英樹 藤原泰衝・・・渡辺いっけい 藤原忠衝・・・ユキリュウイチ)
奥州藤原氏は、その昔、前九年、後三年の役に、源氏を助けて奥州を平定しました。
前九年の役とは1051年、東北地方に起こった阿部氏(貴族)の反乱です。
後三年の役とは1083年、東北地方に起こった清原氏(貴族)の反乱です。
奥州藤原氏は、平泉を本拠地に定めました。奥州にはたくさんの砂金の産出などがあり、平和と富を誇りました。
奥州藤原氏は、朝廷に金や馬をを納めましたが、朝廷の干渉をほとんど受けず、事実上独立国を築いていました。
奥州藤原氏は、争いに巻き込まれるのを好まず、義経は、藤原秀衡に冷たく扱われたという説もあります。
秀衡の子泰衝は父の遺言と朝廷や頼朝は義経を差し出せという要求に悩みますが、末っ子忠衝は遺言を守ろうとします。
泰衝は、義経と仲がいい忠衝は自分の地位を狙っているのではないかと思い、暗殺してしまいます。
義経をかくまっていることがばれたと知り、泰衝(やすひら)は、ついに父の遺言を破り、義経を討ちます。
義経を討つことで奥州藤原氏の安全を確保するつもりだった泰衝ですが、その裏切り行為に頼朝を激怒します。
頼朝は、義経も秀衡もいなくなった藤原氏は、もはや、なんの心にかかることもないとし、28万人の大軍で藤原氏を滅ぼしました。

木曽義仲(木曽義仲・・・小澤征悦 巴御前・・・小池栄子)
頼朝・義経の従兄弟にあたる源義仲は、木曽に本拠を置いたことから木曽義仲と言われました。
義仲は、もともと関東の生まれですが、2歳の時に父源義賢が殺され、木曽谷(長野県)に育ちました。
義仲の妻、巴御前は男まさりの美女で、義仲と一緒に戦いに出かけました。非常に強く馬も上手だったそうです。
義仲の父が、頼朝の兄に殺された関係で、義仲と頼朝の仲はよくありませんでした。
頼朝より先に京都をおさえた義仲は、御所に火をかけ、法皇や天皇を五条東洞院に閉じこめ、勝手に征夷大将軍を名乗りました。
※征夷大将軍とは、もともと蝦夷(東北・北海道)を討つために任じられた臨時の官で、頼朝以後は鎌倉幕府の長官の職名です。
京都に入ってわずか数ヶ月で殺された義仲の墓は、現在、大津市(滋賀県)の義仲寺にあります。

梶原景時(・・・中尾彰)
梶原景時は、正攻法にこだわる律儀な軍監だったので、義経の奇抜な作戦を理解できませんでした。
景時は、義経の戦いの様子を頼朝に伝える役目でした。その他、戦法の相談相手、大将を守るといった役目もありました。
景時は、義経の戦いの様子を頼朝に伝える役目でした。

静御前(・・・石原さとみ)
義経とともに逃げた静ですが、自分が足手まといになっていると気づき、別れます。その後、頼朝の追手に捕らえられました。
捕らえられた静は、母の磯禅師とともに鎌倉に送られました。この時静は、義経の子を宿していました。
静は義経の子を出産しましたが、男子だったので取り上げられ、殺されてしまいました。
静は常盤と同じ白拍子で、京一番との噂でした。
静は、頼朝の前で舞を踊るよう強要され、義経をしたう歌をうたいます。
頼朝の妻、北条政子は、静の舞に対し「あれは夫を思う女心。私がもし静の立場でもそうする」と言い、その場をおさめます。

一ノ谷の戦い
木曽義仲が討たれた後、義経と兄の範頼は後白河法皇から平氏追討の院宣を受け一ノ谷へ向け出陣します。
※院宣とは、上皇または法皇に名において出す文書のことです。
一ノ谷の合戦の数日後、京に戻った義経の屋敷に、この戦いで討ち取られた平氏の武将の首が届けられました。
討ち取られた平氏の武将の首はさらされ、見物人が市をなすほどにぎわったと言われます。
一ノ谷の合戦後、しばらく休戦状態をとったのは、源氏が食糧や船の準備ができなかったためと言われています。
法皇は頼朝から活躍を評価されない義経に配慮し、左衛門尉・検非違使に任官させます。これに対し頼朝は激怒します。
※検非違使(けびいし)とは京都の治安を守る官職です。
頼朝が激怒した理由は、一般には御家人(家来)を統制するため肉親であろうと無断で官位を受けるのを禁止していたためとされて
いますが、真意は、左衛門尉・検非違使=京都在住を意味するため、義経が自らの計画に参加できなくなると考えたからです。
義経は判官殿と呼ばれ、後に義経の悲劇に対する同情や愛惜の気持ちから「判官びいき」という言葉が生まれました。
※判官とは、各役所の中で、3番目の地位にあたる官職の名前です。
一ノ谷の合戦後、源氏がしばらく休戦状態をとったのは、食糧や船の準備ができなかったためと言われています。
一ノ谷の合戦後、義経は、一年間京都にとどまって、政治家としての力をふるいました。

屋島の戦い
義経が当初平氏追討からはずされたのは、京都治安維持のためという説と頼朝に無断で任官した罰という説があります。
義経が四国に渡るとき暴風が吹き荒れていて、源氏方の船はなかなか出発できませんでした。
屋島は島ではなく、瀬戸内海に突き出た古い溶岩の台地です。香川県高松市の北東部にあります。
屋島の戦いの時、弓を海中に落とした義経は、自分の弓が弱いのを敵に知られたくなくて拾ったという説もあります。
屋島の戦いで敗れた平氏は、本拠地がなくなりました。そこで源氏に味方する西国の武士が増えました。
屋島の戦いのとき、義経は5隻の船、150騎ほどの軍勢で平氏を破り四国を支配下に置きました。
屋島の戦いで、長く続いた源平の勝負はほぼ決まりました。
那須与一は、射る矢が70〜80mも飛んで命中させるほどの弓の名手でした。
那須与一が扇を射落とした後、それを見て感動した男が舞をはじめます。義経は与一にあの男も射よと命令し殺してしまいます。
扇をかざした小舟に美女が乗っていたのは、美女目当てに出てきた義経を狙撃しようと平氏が考えていたからです。
平氏敗走後、到着した梶原景時に対し、人々は「四国は義経が攻め落とした。今頃来ても遅い。6日の菖蒲だ」とあざ笑いました。
※菖蒲は5月5日の節句の日にこそ必要であり、6日では役に立たない。梶原もそれと同じだという意味。

壇ノ浦の戦い
壇ノ浦の戦いが行われたのは、玄界灘と周防灘を結ぶ狭い水路(関門海峡)でした。
壇ノ浦を流れる潮流の速さは、時間によっては、15km/hに達することもあります。
源氏は、壇ノ浦の合戦のために水路と潮流についてかなり研究をしたと言われています。
「平家物語」には、壇ノ浦の海戦に参加した両軍の船の数は、源氏3000隻、平氏1000隻と書かれています。
「平家物語」には、源氏の和田義盛という武将が、船には乗らず海岸から遠矢を射て活躍したと書かれています。
壇ノ浦の戦いで、平氏は、大きな唐船には大将を乗せず、大将がいると思って攻める源氏を討ち取る計画でした。
山口県下関市の赤間神宮には、壇ノ浦の海戦で滅びた平氏一門の墓が14基あります。
壇ノ浦の戦いで三種の神器は海に沈みますが、「鏡」、「曲玉」は回収することができました。
※三種の神器とは、天皇の位のしるしとされる「鏡」、「剣」、「曲玉」のことです。
安徳天皇とともに海中に身を投げた二位尼(にいのあま)は平清盛の妻時子で、徳子は清盛の娘です。

義経追討
義経は腰越から京都に帰ると決まったとき、「関東(頼朝)に恨みがある者は自分についてこい」と言ったそうです。
腰越状を受け取った大江広元は、書状を見るには見たが、握りつぶして頼朝に取りつがなかったとも言われています。
義経と手を握ったおじの源行家は、当時、河内、和泉に勢力を持ってました。
法皇から頼朝追討の院宣が出されたのは、土佐坊昌俊の夜襲が行われた翌日のことでした。
頼朝追討の院宣が出されたことを、頼朝本人は数日後に知りましたが、少しも同様しませんでした。
義経を討つためすぐに頼朝に従った武士は、その時鎌倉にいた2096人のうち、わずか58人でした。
頼朝から義経追討の命を受けても、長い源平の戦いに参加していた武士が多く、すぐに準備が整いませんでした。
義経を討つために鎌倉を出発した頼朝は黄瀬川にとどまり、各地に出陣を促す命令を出しました。
頼朝がとどまった黄瀬川は、5年前義経と対面した、ゆかりの地でした。
西国に下ろうとする義経を襲い、頼朝から褒美をもらおうとする者は、かなり多かったと言われます。
京都を出たとき、200騎ほどだった義経一行でしたが、最終的に弁慶、伊豆有綱、静など、ほんのわずかになりました。
頼朝追討の院宣の責任を追及された法皇は、義経におどされ仕方なく出したと言いました。
頼朝は法皇に対し、義経派公家の追放、守護・地頭の設置、頼朝に好意的な九条兼実を摂政につかせるなどを認めさせました。
※守護・地頭は、国や荘園などの私有地を管理したり、取り締まりを行いました。
※摂政とは、天皇にかわって政治を行う官職です。
頼朝に追われた義経を幕府や武士の力に支配されるのを嫌う貴族や寺院がかばいました。
義経をかばったのは、法皇の御所、前摂政の屋敷、奈良の興福寺、京都の鞍馬寺、仁和寺などです。
勧進帳とは、お寺の堂や塔、仏像などを建てたり修理するために寄付をすすめることなどを書いた巻物です。
父藤原秀衡の遺言を破り義経を討った藤原泰衡は、義経を討てば奥州は安泰で、褒美ももらえると考えたそうです。
義経を討った藤原泰衡は、恩賞どころか逆に頼朝に攻められ、逃げる途中、家臣に裏切られ殺されました。
義経を悼む後生の人々は、義経は北海道に渡り、さらにチンギスハンになったという伝説まで作りあげました。

当時の戦い方
武士にとって、もっとも重要な武器は弓と馬でした。弓馬の家とは武士の家を指しました。
当時の戦いは、あらかじめ軍使(使者で切ってはならない)を交換することから始まりました。
富士川の戦いでは、平氏軍が軍使を切ってしまいました。
戦場での戦闘態勢が整うと、武将が軍の前に出て「やあやあ、我こそは・・・。」と名乗りをあげました。
「やあやあ、我こそは・・・。」に始まる口上の内容は、戦闘の理由、自らの武勲や祖先の功績などでした。
実際の戦いは、まず矢合わせで始まります。音を出して飛ぶ鏑矢を射るのが開始の合図となります。
戦いの前半は、矢いくさです。両軍の距離が離れている場合は、45度の角度で遠矢を射りました。
当時の弓の効果がある射程距離は40〜100mといわれています。
当時の戦いは、大将が倒れると全軍総崩れになることが多かったので、大将の安全が必要でした。
当時の戦いは、騎馬戦が中心で、よろいも馬上で動きやすいよう作られていたため隙間があり、そこから矢が刺さったりしました。
当時、「先がけ」といって、敵の中に真っ先に進むことは、大きな名誉とされました。

資料関係
「平家物語」は、1220年頃までに成立した物語で、平氏の進出から滅びるまでの運命を描いています。
「平家物語」の作者は、信濃前司行長とも伝えられますが、琵琶を伴奏にして語り広めた琵琶法師が有名です。
「平家物語」の文章は、難しい漢語と仮名により表現され、語りやすく、覚えやすい独特のリズムがあります。
「平家物語」の最初の部分「祇園精舎の鐘の声・・・」からもわかるように、物語には仏教の考え方が表現されています。
「平家物語」と同じ頃、鴨長明によって著された「方丈記」も、戦乱などに明け暮れる世の中のむなしさを描きました。
「吾妻鏡」は北条氏が政権を握ってから書かれたものなので、頼朝は義経をいじめた人間として書かれています。
義経の伝説は、室町時代の前期に作られた「義経記(ぎけいき)」にまとめられています。
「義経記」は、義経を美男子で弱々しく描いていますが、実際は色白で小柄で強かったと言われています。

その他
元服とは今の成人式のようなもので、衣服を改め、髪を結い、初めて冠をつけました。12〜16歳ごろ行いました。
嫡流とは本家の家筋のこと。家督を相続する者は嫡子と呼ばれています。いわゆる御曹司です。
鞍馬山は、京都左京区の北部にある山です。570mの高さで、中腹には鞍馬寺があります。
鎌倉に何かが起こったとき、鎌倉を守るために駆けつけるのが武士の務めで、これを「いざ鎌倉」と言いました。
今も残る鎌倉街道は「いざ鎌倉」のためにつくられた道路です。

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